ホリハジメの入院日記

 

2000/11/27 Mon

 

 会社を休んで近くのヤスダ医院へ行く。それまで単にセキだけの症状であったが、夕方になると発熱するようになったため、これはヤバイと思い(前年の肺炎の時と同じ症状)レントゲンを撮ってもらう。結果やはり

「肺炎ですね。どうします?紹介状書きますけど希望の病院ありますか?」

「先生、どうしても入院しないとダメなんですか?私、昨年の肺炎のときは自宅療養で治したんです。」

「ダメですね。私は基本的に肺炎は入院で治すものと考えてるので診ないようにしてるんです。紹介先の病院とよく話し合ってください。」

と、こんなやりとりで私の入院は決まってしまった。

 

2000/11/28 Tue

 

 9:30紹介してもらった県営の医療センターに行く。まだ私自身は入院の心構えが全くなく、医師と相談してなんとかなるかもと、期待もあった。そこは凄い混雑ぶりで受付してから名前を呼ばれるまで2時間15分もかかった。やっと診察の順番になる。しかし会った医師はレントゲンを見るなり「一週間くらい入院すれば治りますよ。」と入院以外の選択肢はないかのような雰囲気で迫ってきた。私も通いで治療したい旨を伝えたが全く取り入ってもらえず、あきらめ降参した。

 その後、採血と採尿があり、病院内の食堂で昼食を取り、病棟へ案内された。

「今度ここに入るホリさんでーす。よろしくお願いしまーす。」

と看護婦が言ってベッドに案内する。もうここに寝ろということなのだろうか。入院する用意は全くしてないのだから私はあっけにとられるばかり。おまけに私の場合自分でクルマを運転して来ているような外見はなんともない状態であり、寝なきゃいけない理由がない。とにかく一度自宅に支度のために戻らせてもらう。なんと外出許可証を提出しなければならないことに驚く。 

 16:30再び病院へ向う。今後の治療方針について説明を受ける。1日2回の抗生剤の点滴治療を行うとのこと。食事でダメなものを挙げろと言われたので、牛乳と納豆をやめてもらうようにした。すぐに点滴治療も始まる。腕に今後の点滴するための器具をつける。これは、やわらかい針を常に腕に刺しておき、点滴の管を繋ぐだけで点滴ができるようにするものである。ちょっと痛い。なんだかひどい病人になった気分。

 18:00夕食の時間である。病院食はマズイものという先入観があったが、今日はピーマンの肉詰め。なんとか食べられる。

 19:00今日はサッカーのトヨタカップの日で、朝から楽しみにしてたが入院となってしまいあきらめかけていたら、試合開始時刻に病院の休憩室には誰もいない。しめしめ これでサッカーが見れるぞ。と観戦はじめる。病室の人からテレビは休憩室にあることはあるが、いつもオバチャンが占領しててダメなんだよと聞かされてたので、ラッキーなんだなと考えていた。試合はボカがレアル相手に開始早々に得点を決めて珍しく展開が早い。

前半終了後、そのオバチャンたちがやってきた。2人である。テレビを見るなり、

「今日は歌じゃないんだあ。どうするう?」

「そうだねえ、あっちの休憩するところに行ってみようか。あっちはいつも歌やってるから」

やれやれあきらめたらしいぞ。だけど自分もなんだか発熱してきた様子で、身体が熱い。だけど意地で見届けてやる。と後半始まる。しばらくして看護婦がきた。サッカー見ながらでいいからと熱を測る。37.8度ある。こちらも夕方からの熱には慣れてるのでなんともない。夜になって咳がひどいようなら注射打ちますよと言ってくれた。ありがたいことだ。

またしばらくすると、さっきのオバチャンたちが戻ってきた。

「あっちは寒くてダメだあ。こっちはまだこの人がこれ見てるねえ。」

「そうだね。寒かったねえ。とてもいられやしない。今日はこの人がこれ見てるからねえ。何時までやるのかねえ。」

くそう。なんてイヤミな奴らなんだ。と無視する。するとオバチャンたちは近くに座ってきた。無視する。

「今日はフジアヤコきれいだったねえ。」 しるかそんなこと。

「もうすぐ消灯だから部屋に行こうか。」 おっいいぞいいぞ。

「そうしようか この人見てるから。」 バカヤロウ何言ってんだ。

オバチャン去る。しかし、この病院で好きなテレビ見ようとするのは大変なことらしいことがわかったよ。近くであからさまにイヤミ言われたんじゃたまらんもんね。

試合は消灯時間の9時を過ぎてもまだ終わらない。このまま見ててもいいのかなあ。看護婦さんに怒られるのかなあ。とドキドキしてるうちに終わった。10分過ぎてた。

 部屋に戻ると既に真っ暗闇であった。消灯ってこういうことなのね。なんとか自分のベッドにたどり着いたが、いつも12時ころ寝る人が9時に寝ろったってねえ。悶々としながら寝床に就く。

 23時ころから咳がひどくなってきた。涙も出てきた。泣きながらナースセンターに行って注射を打ってもらうことにする。でもなかなかおさまらず、いつのまにか眠ったようだ。

 

2000/11/29 Wed

 

 6:00起床。有無を言わさず検温である。看護婦さん。こんな朝早くにご苦労様。

 8:00朝食の時間。今日は生あげとにんじんの煮物。牛乳を断ったので私のはヨーグルトに変更されている。でもご飯にヨーグルトは食べられないよ。

前日に同室の人たちとほとんど会話しなかったが、朝食のころには少しづつ話をするようになった。私の部屋は6人部屋で、私は3人ずつの真ん中のベッドである。右隣は脱腸だという上村さん29歳。左隣は大腸が悪いという市川さん42歳。向い側の左はオヤシラズを抜くという人23歳(名前忘れた)。真ん中は大腸の傷がふさがらないという鈴木さん(年齢不明だがお年寄り)。右はやはり大腸が悪い井村さん74歳。の6人である。私は外科の病棟になぜか肺炎患者として混ぜられた。なかでも鈴木さんは具合が悪いらしく、あまり起きあがらない。

 10:00会社に電話する。気になってた用件を頼む。点滴治療30分。

 12:00昼食。今日は親子丼。おいしくないが、がんばって食べる。

タパコはやめたほうがいいと主治医に言われていたが、そんなすぐにやめられるものなら、とっくにやめてるぜ。と食事の後はタバコを吸いに行く。病院は当然禁煙なので、1階の喫煙室に行くのである。ここが風がヒューヒュー吹くような寒い所で喫煙者は文字通り冷遇されている。

 16:00点滴治療30分。

 18:00夕食。今日はエビフライ。隣の市川さんによるとエビフライは病院では素晴らしいおかずらしく、めったに食べられないものだとのこと。という市川さんはオカユ中心の食事で魚の煮物であった。病気によって食事が違うのである。(あたりまえか)市川さんはエビフライを凄くうらやましがっていた。

 22:00消灯後から咳がひどく、発熱もあり、また注射をと考えたが、昨日打った注射が筋肉注射で、あまりに痛く、しかも効かなかったことから今回はやめた。

 

2000/11/30 Thu

 

 6:00起床。隣の市川さんは毎朝、新聞を買いにいくのが日課であり、生きがいなのだそうだ。いつも

「ああ明日も生きていたら新聞を買いに行こう。」なんて言っている。大げさな、と思っていたら、市川さんは末期ガン患者であり、もう長くないらしいことを後から聞いた。市川さんは今日もいつものように新聞を買ってきた。でもなぜか毎日違う銘柄の新聞を買ってくる。今日は毎日新聞だ。私もなんだか真似をしたくなって新聞を買いに行くことにした。家では地方新聞とスポーツ新聞なので、ヒマな時くらいじっくり新聞でも読もうかなと日経を買った。右向いの井村さんはいつも静岡新聞だ。市川さんと仲良しで、新聞を交換して読んでいる。

 8:00朝食。今日は黒豆の煮物、キャベツの塩漬け、ハンペンだ。黒豆には手をつけられなかった。毎度ヨーグルトがついてくるが、ご飯といっしょにはどうしても食べられない。毎日残ることになる。

 12:00昼食。仕事しているときと違って病院では時間がゆっくりと流れている。時間どおりに食事は運ばれてくる。誰もが食事を楽しみにしている。食事だけが楽しみなんて、なんだか淋しい気がするが、いざ自分がその中に入ってみると、やっぱりそうなってしまう。何も疑問を感じずに食事の時間がくるといそいそとハシとコップを用意してお茶を汲みに行く。今日は豚肉のケチャップソテーとパン。

 午後、左向いのオヤシラズ抜歯の人が退院する。私もオヤシラズを一本残してあり、しかも真横に生えているため、虫歯になったら二分割にしての抜歯手術が必要と言われてり、他人ごとでない気がする。彼は今回オヤシラズを3分割して抜いたそうだ。ああオソロシイ。

 16:00点滴治療30分。

 18:00夕食。今日はマグロの醤油漬け焼。

今日は夜になっても発熱せず、咳の注射もしない。

 

2000/12/01 Fri

 

 7:30起床。今日は眠くて起きられなかった。検温あったのかしら。右隣の上村さんは今日退院するとのこと。昨日、夜になってから上村さんの先生がきて抜糸してた。脱腸って抜糸した翌日、退院なんだと思った。そういえば脱腸って、よく知らなかったのだけど、聞いた話では肉体労働する人に多くて、力を入れたときにポコッて腸がお腹の袋から飛び出てしまうことらしい。どうもイメージ湧かないので理解できなかったが、本人曰く変な感じがするだけで痛くないよと言う。でも上村さんは調理師で大人数の食事を毎日作るので再び肉体労働に戻ることになるのである。父親の経営する会社だそうで、すぐ職場に戻って来いと言われているらしい。私は将来は会社役員かぁと、ちょっとうらやましく思った。

 上村さんは他に昆虫の趣味のことを話してくれた。クワガタムシを育てたりしてるらしい。大きなクワガタは高価で買取されるが、そんなに大きなクワガタはめったにできないとのこと。また、売買されているクワガタは養殖ものがほとんどで天然ものなどほとんどないらしい。

 朝食は、さつまあげとワカメの酢の物。コーヒーとトーストがいいなあ。

 10:00点滴治療。

 12:00昼食。今日はオカユとぬた。全然ダメ。ほとんど手をつけず売店にパンを買いに行く。こういう日があるだろうとは予想していたが、やっぱり来た。これまで結構我慢して食べている方だと自分で思う。

 昼食前に上村さんが退院してまた1つベッドが空いた。そして午後に向いの鈴木さんが容態悪化で処置室に移された。お腹の傷がふさがらず、しかも軽い脳梗塞を起こしたとのこと。鈴木さんは今日の朝はとても元気で、珍しく起きあがって皆と話をしたのに。鈴木さんは農業をしていて、政治のことにとても厳しい意見を持っており、今日の朝たまたま政治の話が出たら、大声で自分の意見を述べたり、農業のことに関しても考察深い意見を述べた。後から聞くと、鈴木さんはその後、別の階の処置室に移されたらしい。井村さんや市川さんの話では看護婦に聞いても「退院されました」としか話さず、それが元気になって退院したのか、亡くなったのか何もわからないのだそうだ。実際、看護婦も別の階だとセクションが違うので全く情報交換がない様子だ。同じ階で誰かが亡くなれば、深夜に騒がしくなるので察しがつくが、階が移ると何もわからないのだ。だから井村さんや市川さんは毎日、新聞を取り替えては、おくやみ欄をチェックするのである。

 16:00点滴治療。井村さんは土日を利用して自宅に外泊するため、今日の夕方からいなくなるので、週末は市川さんと2人きりで淋しくなるねと話していたら、私の左向いに松本さんという老人が入院してきた。松本さんは体格のいい元軍人で戦争中はラバウルに行ってたそうだ。ラバウルってどこ?松本さんは腸の調子が悪くて、これまで入退院を繰り返してきたようで、悪くなってから8回目だと自慢していた。私にお腹の手術のあとを見せたがるので困った困った。

 右隣のベッドにも今日1人入ってくるという。今度は酔っ払って階段から落ちてアゴの骨を砕いたという人だ。アゴの骨を折ると、その後のリハビリがきついんだと井村さんが言ってた。ずっと口を開けずにいるので、口が開かなくて、しかも開けようとするとコメカミに激痛が走るという悲惨なものらしい。

 18:20夕食。今日は夕食の時間が遅れた。おかずは春巻とチンジャオロースーだ。中華もあるんだぁと感心。 

 23:00今夜は咳がひどい。熱はないが、咳で眠れないため、注射を打ってもらう。

 

2000/12/02 Sat

 

 6:30起床。市川さんはいつものように新聞を買ってきた。今朝は仲良しの井村さんがいないので、私と話をする機会が多い。市川さんは以前に、ガンで直腸を切除して人口肛門になっていたが、その後に大腸まで転移してしまい、また手術をした。だが、既に大腸はガンを取り切れないところまできていて、そのまま何もせずにお腹を閉じたそうだ。先日、市川さんの主治医が来て、

「市川さん。普通、ガンはステージ3とか4とかいう表現をするけど、市川さんのはそれを超越してるね。検査で数値(何の数値かは?)が一桁でもあるとガンだと入院しなきゃいけないところを、市川さんの数値は6万くらいあるんです。もうどこまでいけるかギネスに載るくらいまで頑張ってください。」なんてあっけらかんと話すのに私はびっくりした。市川さんも外見からは深刻なところがなく、明るく話してくれるので、私も助かるのだけど、時々リアクションに困る場面もある。実際、市川さんの場合、ガンは腎臓まで転移しており、腎臓が機能を停止するまで2年かかると言われているらしいが、それまで生きられるのか、その前に大腸などから衰弱して数ヶ月で死んでしまうのか全くわからないようだ。既に末期ガンであることは本人も承知しており、今年の夏には残された人生を楽しむという意味で一度退院したとのことだが、外来通院が苦痛なことや、食べ物が食べられなくて、胃も重たいからという理由で、また冬から入院しているのである。

 8:00朝食。大根の煮物と梅のふりかけ。

 10:00点滴治療。その後、許可が出たので入浴することにする。入浴は午前と午後が男性と女性とで分けられている。希望者は浴室のホワイトボードに名前を記入しておくのだ。私は今日で入院5日めだが、やっと風呂に入ることができた。それまでは毎日、看護婦が熱いおしぼりを運んでくれて、それで身体をふいて過ごしていた。

 11:00久しぶりにシャワーを浴びて気持ちいいことはいいのだが、その後ぐったり疲れてしまった。やはり病人なんだろうな。

 12:00昼食。焼肉と中華風もやし。焼肉はうれしいのだけど、干物のように硬い肉だった。

土日は見舞いの人が多いから騒がしいよと市川さんが話してくれたが、お互い誰も来客なく2人で話すばかり。右隣にアゴを砕いた人が昨日から入っているが、ベッドにいることが少なく、口をボルトで固定され、しゃべりにくいみたいで話をする機会がない。彼も同室の人と話をする気もないようだ。食事は当然だが食べられないらしく、流動食のようなものがカップに入って運ばれてきて、チューチュー吸う音が聞こえてくる。ちょっと笑える。

 16:00点滴治療。点滴も慣れてきた。この点滴に使う管や注射針は使い捨てだと聞いた。そういえば、看護婦が持ってくるときは、いつもビニール包装された注射器を開けて使ってたな。マジックで名前も書いてある。大きな病院で点滴の器具が使い捨てなんて、衛生的には良いのだろうが、ゴミの量は半端じゃないだろうな。この管作ってるメーカーは儲かるなあ。なんて考えてた。

 18:00夕食。魚の味噌焼とじゃがいもの煮物。

今夜は熱もなく、注射もしない。

 

2000/12/03 Sun

 

 4:00頃から咳がひどい。点滴の抗生剤のせいか咳にタンがからまなくなり、それが空咳となって余計苦しい。

 6:30起床。もう起きて日経新聞を買いに行くのが日課になった。ただ病院で買う新聞は折込チラシが入ってないのが残念。私は毎日チラシをチェックして何か安いものはないか探すのが好きなのである。毎日見てるといろんな物の相場がわかるので役立つこともある。

 8:00朝食。キャベツの多い味噌汁、ほうれん草のおしたし、じゃがいもの煮物。いつものように市川さんはオカユ中心の食事で、ほとんど食べないで残している。市川さんは特に食べ物に気をつける必要はないため、老人のために用意されている寿食という名前の、皆と同じおかずで、全体の量が少ないというものに代えてみたらどうかと話してみた。本人も寿食のことは考えていたようで、今日の昼から変更されることになった。

 12:00昼食。マーボードーフ、鳥の唐揚げ。早速、市川さんにどうだったかと聞くと、

「ダメだよホリさん。あの唐揚げにかかってたアンカケのにおいで吐き気がして食べれなかった。麻婆豆腐ってあんな味だっけ。あれもダメだったよ。」なんて言ってる。あらあら。

「私、お好み焼が好きなんですよ。あああ。お好み焼食いてえなあ。ソースがいっぱいかかってるやつ。」市川さんは好き嫌いが多いんだなあと思う。

 13:00食後にタバコを吸いに行く。この頃はタバコを吸うのに1階の喫煙所でなく、屋上に行くことが多くなった。屋上は喫煙者の集まる場所でもある。毎日顔を合わせていると自然に会話するようになるから不思議だ。この病院は周りを山で囲まれたような低いところに位置しており、見晴らしはあまり良くない。屋上で話した老人によると、こういう所は昔、軍隊の兵舎がよく作られていたそうな。そういえば、同室の松本さんはラバウルで活躍した軍人だが、あるとき松本さんから、こんな話を聞いた。敵に攻撃されて乗ってた舟が沈没しそうなときは、沈む前に先に海に飛び込まないと助からない。そうしないと船が沈むときの渦に巻き込まれてしまうのだそうだ。ああこれはいいことを聞いた、と私は思ったが、果たしてこの知識って役立つことがあるのか。

 16:00点滴治療。日曜日は看護婦の数も少なく。静かな感じ。しかし看護婦さんというのは良く働くね。老人のシモの世話や、身体が不自由でおしぼりがうまく使えない様子を見るや、「お手伝いします。」と言って進んで身体を拭いてあげるなど、見ていて感心することばかり。いくら仕事とはいえ私には到底できそうもないなと痛感した。どうか看護婦さんには沢山お給料をあげてください、と願う。

 17:00頃、井村さんが自宅から戻ってきた。

 18:00夕食。焼き魚、タコの酢の物、田舎汁。病院の食事で出てくる魚って、私にとって骨が異様に少なく感じるのだけど、骨をあらかじめ抜いて消毒してるのかなぁ。

 23:00頃寝たと思う。

 

2000/12/04 Mon

 

 4:00頃から、また咳がひどいため、泣きながらナースセンターに行って注射を打ってもらう。

 6:30起床。検温。月曜日になったとたん、看護婦の数が増えた。なんとなく安心する。だけど主治医が毎日診に来るというわけではない。弟子のような若い先生が来るが、すぐに去ってしまう。大きな病院では外来も入院患者も一様に商品のように扱われる気がする。町医者のような親密な感じは希薄で、全てがお役所仕事のような印象を受けた。あまりに多くの患者を受け持つと、そうなってしまうのも仕方ないのかなぁ。ここでは命に関わらないと、熱心に診てもらえないようだ。実際、右向いの井村さんなど、人口肛門の生活が大変というだけで入院しているので、主治医が診に来たところを見た事がない。本人もそのことについては不満を持っており、近頃は発熱することが多いにも関わらず、全く主治医が来ないので、井村さん、今日とうとう爆発した。と言っても、主治医本人に文句を言ったわけではなく、看護婦を1人つかまえて、グチを延々と聞かせたという格好。つかまった看護婦は見ててちょっと可哀想だったが、果たして井村さんの主治医に伝わるのだろうか。

 8:00朝食。キャベツの塩漬け。

 9:00採血。抗生剤の点滴を始めて約1週間たったので、血液検査で様子を確認するとのこと。また今日はレントゲン撮影もするとのこと。

 12:00昼食。酢豚、小松菜の煮物、バナナ。バナナって久しぶりに食べた。

 13:30レントゲン撮影に呼ばれる。なんと呼ばれるとき、ベッドについてるスピーカーから呼ぶものだからびっくりした。横着なことだ。レントゲンはすぐに終わった。用事は済んだので風呂にでも入ろうかな。

 14:40入浴する。といってもシャワーだが。今日は2回目のせいかスムーズに入れた。前回のように入浴後にぐったりするようなことはなかった。

 15:00主治医の弟子の若い先生から呼ばれた。今日の採血とレントゲンの結果を話すとのこと。

「ホリさん。レントゲンを見てもらえばわかるけど、ほら、白い影が消えてるでしょ。それに血液検査の結果もほら、炎症反応が許容値に入ってます。抗生剤の点滴は今日で1週間になるので、あと1回で終わりになります。ホリさんさえ良ければ、これで退院となりますが、いかがですか?」

「えっ?まだ咳がひどいし、全然良くなった感じしないんですけど。もう点滴しないんですか?」

「ええ。1週間で終わりです。」

「咳はだんだん良くなるんでしょうか?」

「抗生物質と咳止めの飲み薬がでてると思いますが、これをしばらく飲んでもらえば、良くなってくるでしょう。」

「わかりました。点滴しないんじゃ居ても仕方ないですよね。退院させてください。」

「それでは退院の手続きを取らせて頂きます。2週間後に予約入れておきますので一度外来で診察を受けてください。それで問題なければOKです。退院は明日の午後でよろしいですか?」

「はい。明日の午後ですね。わかりました。」

と、こんな話であった。自分では良くなった気がしないので、なんだかうれしいような、変な気分。追い出されるみたいだなぁ。

 16:00最後の点滴。終わった後、今まで刺してあった針を抜き、腕の器具を外された。きっと手錠を外されたらこんな解放された気分になるのに違いないと思った。

 17:00同室の人たちに明日退院する旨を伝えたら、皆が不思議がる。

「ホリさん。まだ咳ひどいじゃない。おかしいねえ。大丈夫なの?」という具合。そんな話をしていたら、井村さんの主治医が部屋の入り口に立っている。おお。やっと来たんだぁ。皆が気がつくと、その先生は思い出したように井村さんに近づいてきた。そして少し井村さんと話した後すぐに出て行ってしまった。

「良かったね井村さん。来てもらって。でもあの先生怖い顔してるねぇ。」と私。

「そうだね。でも何も言わずに入り口に立ってるなんて、おかしな人だねぇ。気がつかなかったら、ずっと立ってるのかねぇ。」と市川さん。

「きっとプライドが高いんだよ。誰かが気づかないと、そのまま帰っちゃうかもしれないよ。」と私。井村さんは満足した様子で、なんとなく機嫌がよくなった感じがした。井村さんの主治医は、ここの外科のトップだと聞いていたが、それにしても変人である。

 18:00夕食。まぜご飯、シャケ。まぜご飯に入っているグリーンピースは、なんとなく除けてしまう。

 19:30家からタコヤキを持ってきてもらう。以前に市川さんが、お好み焼が食べたいと言っていたので、タコヤキなら好きだろうと、無理言って持ってきてもらったのだ。私は自分が、それほど情にもろい方ではないと思うが、市川さんを見ていたら、どういうわけか、なんとかしてやりたいという気持ちになっていた。そのタコヤキを市川さんはとても喜んでくれた。私も良かったと思った。

 22:00頃に寝たと思う。

 

2000/12/05 Tue

 

 2:30頃どういうわけか汗をびっしょりかいた。熱が出たのか不明。こんなんで退院してもいいんだろうか。

 6:30起床。検温。看護婦さんも、まだ私に検温に来てくれる。

 8:00朝食。豆腐、ちくわの煮物、タクアン。

 9:00今日はベッドのシーツ交換の日らしく、全員部屋を追い出される。もちろん動けない人は別だが。このシーツ交換というのは、かなりの大人数で行う。交換業者の人たちは開始時間までの間、ナースセンター付近で一列に並んで待っている。総勢30名くらいだろうか。全て女性。理解するまでは何事かと思った。この人たちが2人づつ組になって次々に部屋のシーツを手際良く交換していくのだ。あまりの手際良さに外でずっと眺めていても飽きないと思ったが、井村さんに一服しに屋上へ誘われたので、いっしょに行くことにした。

 屋上は太陽が当たるとポカポカ陽気で気持ちがいい。12月とは思えないくらいだ。でもやはり日陰になると寒さの厳しい場所でもある。今日は太陽が出ていて暖かい。井村さんは、若いころ学校の教師をした後、建築関係の事業を起こしたという経歴の持ち主で、話題が豊富で、しかも人に話すのがとてもうまい。いつも周りの人達に持論を弁舌している。今日はサンケイ新聞の記者をやってる人に会った。東京に自宅があるのだか、単身赴任で地方に出てきて、身体をこわしたらしい。家族は遠いので当然見舞いにもこれないため、さびしそうだった。

 12:00昼食。メニューは忘れた。これが病院での最後の食事だ。退院するなら午前中にしてもらえば良かったと今ごろ考えた。点滴するわけでもなく、ただ過ごすだけなら意味がない。しかし私も自分で身体が治ってきたような実感がまるでないため、なんだか病院を去りがたいような気持ちなのである。

 13:00これまでの入院の代金の清算が終わり、身の周りを片付ける。ジーパンを1週間ぶりにはいた。着替えを終え、家族の迎えを待つが、遅れているようだ。待っている間、同室の元軍人、松本さんと話をした。松本さんは入院してきた頃は食事が取れなかったが、今では回復して、だいぶ元気になった。松本さんは自分の病気のことを話すのが好きらしく、また同じ話を私にしてきた。松本さんは8回めの入院で、それを手帳に記録している。その手帳を私に見せてくれた。またお腹の傷口を見せようとするので、いいよいいよと断った。

 松本さんと話をしている間に、私の寝ていたベット゜は片付けられ、すぐに新しく仕立てたベッドが入ってきた。すぐに次の人が入院してくるらしい。私がまだ部屋にいるので、看護婦も最初は遠慮していたようだが、時間が迫っているようで、慌しかった。あぁ本当に追い出されるみたいだ。私のように身体が動いて自分で食事ができるような患者は長くはおいてもらえないようだ。

 しばらくして家族が迎えにきたので、私は病院を後にした。

 

 

 

 

 

 2週間後

 

2000/12/19 Tue

 

 今日は外来で再び病院へ行く。退院してからも市川さんのことが、なんとなく気になっていた。でも見舞いに行こうかどうか、まだ迷っていた。

 レントゲン撮影を終え、まだ診察時間まで時間があるので、私は以前いた702号室に行ってみた。2週間も経つと部屋の患者は入れ替り、ネームプレートを見ると、井村さんと市川さんだけが、私の知っている人達だった。中に入ると、井村さんがいた。市川さんは何処かに行っているらしく姿が見えない。井村さんは明日退院するとのことだった。しばらく井村さんと話をしたが、市川さんは戻ってこない。診察の時間が近づいてきたので、私は外来病棟へ戻ることにした。

 診察の結果、もう来なくていいとのこと。咳がまだ治らないので、薬はしばらく飲んでいてくれと言われた。病院の用事はすぐに済んでしまった。

 帰宅しようとエレベーターを降りたが、市川さんに会えなかったことが、どうもひっかかっていた。もう病院にはしばらく来ないなぁと思ったら、私はエレベーターに引き返していた。

 また702号室に向う。今度は市川さんがいた。でも眠っていた。井村さんが、気を使って市川さんを起こしてくれた。市川さんは散髪してすっきりしていて、容態は変わりない様子だった。市川さんは私が以前あげたタコヤキがおいしかったと、また礼を言った。話をしているうちに昼食が運ばれてきたので、私は失礼することにした。

 帰宅途中、私は満足感のようなものを感じた。ずっと気になっていたことが解決したような感じ。もう市川さんとも会うことはないだろう。私の入院生活はこのときに終わったのだと感じた。

 

 

 

おしまい